みなさんは、ファッション業界のDXと聞いて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
オムニチャネルでのスムーズな購買体験や、ARを使ったバーチャル試着などを思い浮かべる方も多いかもしれません。
しかし今回注目するのは、欧州のファッション業界で導入が急がれている「デジタル製品パスポート(Digital Product Passport, DPP)」の取り組みです。
日本ではあまり大々的に取り上げられることの少ないこの動きは、デジタル技術を活用してサーキュラーエコノミー(循環経済)を実現し、サステナブルな未来を築く新しい基盤として注目されるだけでなく、顧客体験とエンゲージメントの向上をもたらす新しい挑戦として期待されています。
本記事では、DPPとは何か、その背景にある欧州の法規制や業界動向、企業事例、そしてDPPに期待されている新しい顧客価値について解説します。
- デジタル製品パスポート(DPP)とは?
- 欧州で進むDPPの法制化
- DPPが消費者と企業にもたらす価値
- 顧客にとっての価値:真正性の証明や所有性の顕示、製品価値の向上
- 企業にとっての価値:カスタマーエンゲージメントの強化や新たなビジネスモデルの可能性
- DPPの試行的導入の動き
- Prada
- TOD's
- Bulgari
- 導入までの課題:川上から川下まで複数の企業・工程をまたぐデータ収集・統合が必要
- 米国や日本での動き:いずれも本格的な導入予定は未定
- 米国の動き
- 日本の動き
- まとめ:欧州版DPPは「Greater Good(社会全体の利益)」に向けたアジャイル型DXの最適なモデルケース
- サステナビリティ経営を加速するためのクラウド・プラットフォームを提供するbooost technologiesのご紹介
デジタル製品パスポート(DPP)とは?
デジタル製品パスポート(Digital Product Passport, 以下DPP))は、製品のライフサイクル全体にわたる情報をデジタル形式で一元管理し、簡単にアクセスできる製品の「履歴書」のようなシステムです。
製品に埋め込まれたQRコードやNFCタグを使用して以下のような情報を確認できます:
原材料の調達地
製造工程でのエネルギー消費や環境負荷
製品の輸送経路
カーボンフットプリントやリサイクル可能性
廃棄方法や再利用の提案
食品や化粧品、衣類などの製品では、これまでにも原材料や環境負荷、生産ルートなどに関する一部の情報が製品に直接印字される形で表示されていました。
DPPはブロックチェーン技術を活用し、ライフサイクル全体にわたってより広範に捉えたこれらの情報をデジタルで記録し、「誰でも」「いつでも」「どこからでも」アクセスできるようにする仕組みです。
カーボンニュートラル(※1)やサーキュラーエコノミー(※2)の実現に向け、製品の環境負荷を可視化することで、サプライヤーと消費者双方によるより持続可能な製品開発と消費行動が促進されることが期待されています。
※1 温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させ、実質的に排出をゼロにする状態。
※2 資源を効率的に循環利用し、新たな付加価値を生み出す経済システム。従来の大量生産・大量消費から脱却し、廃棄物を最小限に抑えながら、資源の価値を持続的に保つことを目指す。
欧州で進むDPPの法制化

現在、欧州のファッション業界では、DPPの迅速な導入が求められています。その背景には、環境問題への意識の高まりと、2024年7月18日にEUで施行されたエコデザイン規則(以下、ESPR)の存在があります。
ESPRでは、2030年までにEU市場に流通する全ての対象製品に対して、QRコードなどの機械で読み取れる形でDPPが付与されることが義務付けられました。DPP上で電子的に把握される情報がEUの環境基準に適合しない場合、製品への販売許可を認めないことや高い関税をかけるといったことが可能となります。そのため、EUを拠点とする企業だけでなく、EU市場でビジネスを展開する世界中の企業に対応が求められる、大きな規制変更となります。
現在のDPP対象製品は、衣類などの繊維製品に加え、家具、薬品、バッテリー、電子機器など7種目が予定されており、2026年から2030年の間に段階的に義務化される予定です。
特にファッション業界は、衣料品の生産と廃棄が環境に与える影響が大きく、1枚のコットン製Tシャツの生産に約2,700リットルの水が必要とされるなど、水資源や土地利用への負荷の増加が指摘されていました。さらに、ファストファッションの流行などにより、過去数十年で衣料品の購入量が40%増えた一方、消費された衣料品のわずか1%しかリサイクルされていないなど、廃棄物が多いことも問題視されています。グローバルにまたがる複雑なバリューチェーンからも、ファッション業界はサーキュラーエコノミーの実現にとって重要な産業であると考えられてきたのです。
DPPが消費者と企業にもたらす価値
環境負荷の可視化によるサーキュラーエコノミーの実現を目的とするDPPですが、その他にも以下のようなさまざまな観点から消費者と企業双方に新たな価値をもたらすことが期待されています。
顧客にとっての価値:真正性の証明や所有性の顕示、製品価値の向上
ブランドに対する信頼性の向上:
店頭やオンラインで購入を検討する際、DPPをスキャンすることで、その製品がどれだけ環境に配慮して作られているか、具体的な情報を確認できます。「サステナブル」や「エシカル」といった言葉だけではなく、具体的なデータが可視化されるため、企業やブランドの環境配慮に関する信頼感が高まります。所有性の証明・顕示:
DPPは製品の真正性の客観的な証明としても機能するため、所有者は属人的な鑑定に頼らず本物を所有している安心感が得られ、対外的にその証明を示すことで、自身の価値観や選択をアピールすることができます。製品価値を維持・向上させるための情報へのアクセス:
製品のケア方法やスタイリングのヒントなども表示されるため、アイテムの長期利用を促進し、無駄を減らすことが可能です。
企業にとっての価値:カスタマーエンゲージメントの強化や新たなビジネスモデルの可能性
カスタマーエンゲージメントの強化:
これまでは卸売業者を介した製品販売においては、メーカーが顧客接点を持つことが困難でしたが、DPPを通じて、企業は直接顧客とつながることができます。これにより、顧客の購買行動や嗜好をより深く理解し、パーソナライズされたサービスや製品を提供することも可能になります。新たなビジネスモデルの可能性:
これまでは一度消費者に販売された製品の行方を追うことが困難でしたが、セカンダリーマーケット(中古市場)での真贋確認が容易になることで、例えば自社プラットフォームでの再販売やレンタル事業の基盤構築など、従来の販売モデルを超えた新たな収益源の確立も期待されます。生産プロセスの最適化:
生産ラインから得られる詳細なデータを活用することで、製造業者はプロセスの最適化を図り、廃棄物を削減し、生産効率を向上させることが可能です。詳細なコスト分析:
デジタルによるトレーサビリティにより、エネルギー消費、原材料費、人件費を含む各製品の正確な生産コストを追跡できるようになります。
DPPの試行的導入の動き
欧州のファッション業界は現在、来るDPP導入義務への遵守に向け、着々と準備を進めいてます。中でも、名だたるラグジュアリーブランドが次々とDPPの試行的導入を発表し、話題になっています。
ラグジュアリーブランドの消費者層は近年大きく変化しており、2030年までにミレニアル世代とZ世代が支出の60〜70%を占めると予測されています。これらの世代はステータスだけでなく、パーソナライゼーションや倫理的価値を重視し、ブランドにはサステナビリティや多様性、意味のある体験価値を求めると言われています。特にサステナビリティは、近年ラグジュアリー業界における重要な要素となっており、Capgeminiの調査では64%のラグジュアリー製品消費者が購入時にサステナビリティを重要視しているとの結果が示されました。
このような背景を受け、欧州のラグジュアリーブランド業界全体で、DPPの開発と導入を推進する動きが加速化しています。2021年4月には、ラグジュアリーブランドを代表するプラダ・グループ、LVMH、リシュモングループのカルティエが、世界のラグジュアリーブランドに開かれた共通のブロックチェーンソリューションを推進することを目的とした「オーラ・ブロックチェーン・コンソーシアム(Aura Blockchain Consortium)」を創設しました。設立以来50以上のラグジュアリーブランドが参加し、カスタマイズ可能なデジタル製品パスポートの共同開発を通じて、業界標準の確立を目指しています。現在、これらのブランドによる5,000万点以上の製品情報がブロックチェーン上で管理されています。
また同コンソーシアムは、Bain & Companyとのパートナーシップや技術プロバイダーとの連携で、社内に十分な開発リソースを持たないブランドでも迅速なブロックチェーンの導入を可能にするコーディング不要の低コストなツール「Aura SaaS」や、消費者向けのデータ可視化ツールを開発しています。
以下は、これまでに同コンソーシアムとの共同開発を通じてブロックチェーンの活用を進めてきたブランドの例です。
Prada
プラダは、オーラ・ブロックチェーン技術を活用し、ジュエリー製品にNFC認証カードを導入しました。このカードは、製品の流通経路基準、起源や履歴、トレーサビリティと真正性に関する情報を提供します。製品に付属するカードをスキャンすることで、所有者は製品情報だけでなく、使用されている石(例:ダイヤモンド)の履歴や持続可能性基準についても確認できます。

TOD's
Tod'sはオーラ・ブロックチェーン技術とNFCタグを活用し、同ブランドのシグネチャーバッグである「Di Bag」の真贋やトレーサビリティを保証するサービスを提供しています。
購入者はバッグに埋め込まれたタグをスマートフォンでスキャンすると、素材原産地や製造過程、持続可能性などの情報を簡単に確認できます。またこのパスポートを登録すると、保証期間が延長され、ケアや修理の専用サポート、さらに限定イベントへのアクセスといった特典も利用可能です。


Bulgari
ブルガリは、オーラ・ブロックチェーン・コンソーシアムとの協力により、NFCタグとタッチ体験を組み込んだ「セルペンティ イン アート(Serpenti in Art)」コレクションにデジタル製品パスポート(DPP)を導入しました。NFCタグはヘビの形をしたツイストロック部分に配置されており、所有者はスマートフォンをロック部分にタッチすることで、バッグの歴史や3D映像、コラボレーションアーティストごとのテーマ背景やブランドなど、各バッグの魅力を知るデジタル体験を楽しむことができます。

導入までの課題:川上から川下まで複数の企業・工程をまたぐデータ収集・統合が必要
データ要件や規制基準の詳細についてはEU側から未発表ですが、主要企業は2030年までという限られた時間の中で対応を進めるべくすでに動き出しています。しかし、この導入に向けた準備は一筋縄ではいかず、必要とされるデータやその管理方法、標準化の整備など、多くの課題が待ち受けています。
まず、ブランドはDPP要件に基づく膨大なデータの収集と整理が必要です。特に、素材や製品の上流工程に関する情報はサプライヤーとの密な連携が不可欠であり、収集が困難な場合もあります。
また、これらのデータを統合的に管理するトレーサビリティシステムを構築し、製品レベルやロットレベルなど複数の階層で正確に追跡できる体制を整える必要があります。
さらに、データ標準化も重要な要素です。サプライチェーン全体に散在するデータを共有可能な形式に統一し、リサイクル業者や修理サービスなど、ブランドが直接管理していない情報も含めて対応する必要があります。複数の企業や工程にわたって製品情報を記録することは手間とコストがかかり、オープンで拡張性の高いデータアーキテクチャが求められます。
これらは導入に向けた課題のほんの一部であり、対象製品のサプライヤーは現在、規制対応に向け急ピッチで準備を進めていると言われています。
米国や日本での動き:いずれも本格的な導入予定は未定
米国の動き
アメリカのファッション業界におけるDPPの導入は、欧州に比べてまだ発展途上にありますが、透明性や持続可能性を重視する一部の企業や団体による自主的な取り組みが進んでいます。
例えば、CoachやNikeといった企業は、製品にRFIDタグやNFTタグを埋め込むことで製品のライフサイクル情報や素材に関する情報、中古製品の修理や再利用の情報を消費者に提供し、DPPの考え方を取り入れたシステムの導入を進めています。
一方で、2024年の大統領選挙で従来の規制緩和を重視するドナルド・トランプ氏が当選したことで、連邦レベルでの環境規制や持続可能性に関する政策は後退する可能性が高まっています。このため、近い将来、DPPを含むサステナビリティ関連の取り組みが連邦レベルで法整備される見込みは薄いとの見方が強まっています。
しかしながら、カリフォルニア州をはじめとする環境意識の高い州や都市では、州レベルの規制やイニシアチブが継続的に推進される可能性があります。また、欧州市場に製品を供給する国際的なファッションブランドは、EUの規制に準拠する必要があるため、自主的にDPPの導入を進める動きが見られます。
日本の動き
日本においてもDPPに関する取り組みや議論は進められていますが、具体的な導入時期や形態については未定です。
政府レベルでは、内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)において、素材、製品、流通、回収、分別、リサイクルといった各プロセスをデジタル基盤で連携させる「日本版DPP」の環境構築に向けた議論が進められています。
また、民間企業の取り組みとして、大手総合商社である丸紅は、2023年よりジャパン・サーキュラー・エコノミー・パートナーシップと連携し、トレーサビリティ管理プラットフォームの導入プロジェクトを開始しています。これにより、日本版DPPの実現に向けた基盤づくりが進行中です。
一方、欧州市場への製品輸出を行う日本企業にとってはEUのDPP規制への対応は不可欠であり、早期にDPPを導入できるよう欧州同様の分散型でアジャイルな動きが期待されています。
まとめ:欧州版DPPは「Greater Good(社会全体の利益)」に向けたアジャイル型DXの最適なモデルケース
欧州のラグジュアリー業界におけるデジタル製品パスポート(DPP)の事例は、DXが企業の売上向上や業務効率化の手段を超えて、これからの世の中に求められる企業活動のサステナビリティやGX(グリーントランスフォーメーション)においても非常に重要な役割を担っていることを示しています。
サステナビリティへの取り組みは個々の企業の責任にとどまらず、産業や国全体で規制への対応やインパクトの創出が求められるものです。欧州のラグジュアリー業界の取り組みは、このような「Greater Good(社会全体の利益)」に向かってデジタルを活用する上での重要なヒントを提供しています。さらに、このアプローチは主に政府が主導する中央集権的な動きに委ねるのではなく、分散型で行われている点も重要です。これにより、アジャイルな導入が可能となり、急速に変化する市場や技術環境に柔軟に対応できます。
DXとGXの統合的な推進は、ファッション業界に限らず、多くの産業で今後ますます重要になっていくでしょう。その中で企業は、個社の利益追求だけでなく、産業全体、さらには社会全体へのインパクトに最適化することが求められます。その際、欧州のラグジュアリー業界が示すような、企業間の協力と分散型のアプローチが大いに参考になると考えらます。
サステナビリティ経営を加速するためのクラウド・プラットフォームを提供するbooost technologiesのご紹介

弊社の投資先であるbooost technologiesは、サステナビリティ経営やSX(サステナビリティトランスフォーメーション)を支援するためのクラウド・プラットフォーム「booost Sustainability Cloud」を提供しています。
「booost Sustainability Cloud」は、SXプロジェクトの成功に必要なコンセプトである 「サステナビリティERP」を体現したプロダクト群です。温室効果ガス(GHG)の排出量をScope1,2,3にわたり効率的かつ正確に算定し、本部での一括算定から拠点別の詳細な算定まで柔軟に対応しています。また、データの可視化を通じて分析や削減施策を支援し、企業が持続可能な取り組みを推進するための強力なツールとして機能します。
企業ごとに異なるデータ形式や運用フローによる手間やミスを軽減し、各種法規制や開示基準への対応も円滑に行える環境を整備します。これにより、企業は第三者保証に耐えうるオペレーションを確立しながら、サステナビリティ関連業務の効率化・最適化し、持続可能性への貢献を実現するための基盤を築くことが可能となります。

ご興味のある方はぜひご覧ください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Text by Natsuko Seto(@natsuko_seto)
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<参考資料>
LVMH、プラダ、カルティエも参画。「 デジタル製品パスポート 」はラグジュアリー業界をどう変えるのか, Ecodesign for Sustainable Products Regulation, DPP in the fashion industry: What textile and footwear brands need to know about the Digital Product Passport, Full overview of the EU textile strategy and regulations, Embracing Digital Product Passport as a regulatory requirement: Setting a new standard for luxury experiences and circularity, The Future Of Manufacturing With Digital Product Passports, Digital Product Passports Are Coming: Here’s How Fashion Companies Can Prepare, The impact of textile production and waste on the environment (infographics), LUXONOMY Report: Key Factors Defining the Luxury Sector Between 2025 and 2030, Tod's Passport, プラダ・グループ、LVMHおよびカルティエとともにオーラ ブロックチェーン コンソーシアムを創設, AURA ENTERED A GLOBAL STRATEGIC PARTNERSHIP WITH BAIN & COMPANY, LVMH: Aura Blockchain Consortium launches Aura SaaS for luxury brands, How Luxury Brands are Embracing the Digital Product Passports?, Bulgari Serpenti transforms into NFT art with immersive AI installation, The solution to fashion’s sustainability crisis may be connected clothing tags, 戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)サーキュラーエコノミーシステムの構築社会実装に向けた戦略及び研究開発計画